読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

タニグチコウヨウ.blog

しょーもない一瞬一瞬を切り取っていきたい。

2月19日の出来事

 
・スポーツニュースで、○○選手が本日今シーズン初のブルペン入りをしました、と聞いたことがあるだろう。
ブルペンとは投球練習場のことだ。
バイト先の女性の店長はもう立派なママの年齢だが、つい最近までブルペンを”国”だと思っていたらしい。
野球好きが集まる国。いったいどんな国なんだろう、とずっと思ってきたのだそう。
ブルネイと一緒にしないでください。
国、と思うところがすごい。まさに天才と天然は紙一重である。
今年一番笑った。
 
・あらあ、またドードーだわ~。と白髪のおばあさん。
どこにドードーがいるの。とこちらも白髪のおじいさん。
ここにいるじゃないの~。とおばあさんは返す。
バイトからの帰り道。
去年さんざん目の当たりにした光景のはずだが、まだ慣れない。いつまでも新鮮な感覚だ。
ポケモン世代、という言葉が、あいまいになってきた。
 
・今日風呂から上がってひさびさにサザエさんを観た。
ワカメちゃんが小さいころお気に入りだった人形を近所の年下の女の子にあげてしまうお話。
ほんとうにあげてよかったのかい、と聞くサザエたちに対し、
私はもう子どもじゃないからお人形さんは卒業するの~と言うワカメ。
そのセリフを聞いた瞬間、「もう何十年間もずーっと子どもなのにな!」と思わずつっこんでしまった。
純粋にサザエさんを楽しめなくなってきたのかもしれない。
 
昨日からポケモンGOを再開した。やっぱり、図鑑を埋めるのが楽しい。

谷口悔恨

あのとき声をかけていたら、と後悔することはないだろうか。

絶世の美女(というわけではなくても)、明らかに困っている人にあのとき「大丈夫ですか?」と声をかけていたらどうなっていただろうか…チキショー!と、あとから後悔した経験は多くの人が一度はあるのではないか。特に男性に多そうだ。

以下、今朝バイトに行くための駅までの道のりでの出来事。

電車の時間を気にしながら歩く僕の目の前に、絶世の美女(かは分からないが、そういうことにしておく)が横道から現れた。
その女性はたった一人で何やら大きなベッドを運んでいた。もちろんキャスター付きで転がしているのだが、ここは外である。舗装されているとはいえ、うまく進まない。さらにベッドの上にかかっている敷き布団のようなものが風に煽られてそれを押さえつけながら、どこかに向かって運んでいた。
明らかに女性が一人でやる仕事ではなかった。
その女性も後ろから見る限り(そんなにジロジロ見ていない)、華奢な体型のため重そうにしていた。「もー、朝からサイアクー」という心の声が聞こえてきそうだった。

そんな女性が目の前に現れたわけだが。わたくしチキン君はすすーっと女性を追い抜いてしまった。

追い抜く瞬間、左斜め後ろから女性の心の声が聞こえてくる。ちょっとそこの男性、手伝ってくれないかなァ…

追い抜いてからもずっと考える。今ならまだ間に合うかもしれない、後ろを振り向いて女性に一言声をかけるだけで女性をラクにさせてあげられるかもしれない。

でも、できなかった。何事も一度逃げたら、そこから自分を奮い立たせることは困難である。

そして、女性との距離が離れるにつれ、
朝っぱらから声をかけるなんて失礼だよな、とか
電車乗り遅れたらバイトに遅れちゃうしな、とか
自分で必死に言い訳をし、自分の後悔を和らげる思考をする。

…なにをやってるんだ、おれは、と悔やむ。
女性一人助けられないのか、と悔やむ。
声をかけていたら女性とどんな話をしただろう、と悔やむ。

チクショウ、声かければよかった!!

…これだけ書いてたらなんだか笑えてきた。

これを機に、これからはたとえバイトに遅れそうなときでも困っている人を見たらすぐに助けよう。そう心に決めた。


当然だが、今朝の相手が男性なら、全く後悔していない。

 

余談だが、このブログのタイトルはちょうど今借りて読んでいるスラムダンクの第180話「三井悔恨」から取っている。取っているというか、すぐに頭に浮かんだ。

f:id:happysun721:20170212083009j:image

 画像の出典:井上雄彦 スラムダンク 「#180 三井悔恨」 集英社

高校でバスケを再開した三井は、過去に自分が不良だった無駄な時間を後悔する、という全く違う悔恨だが、とりあえず三井と自分の姿を重ねてみた。

こんなこと電車で書いていたらスラダンの続き読めなかった。バイト行ってきます。

 

みんな最初はわからない/『せいのめざめ』

いつだったか、たぶんまだ僕が5歳くらいの頃の、母親とのやり取りを今でもはっきりと覚えている。
 
僕「あのさー、こどもってさー、どうやったらうまれるのー?けっこんしたらうまれるのー?」
 
母「うーん…まあそんな感じよ」
 
僕「けっこんして、ちゅうしたらうまれるのー?」
 
母「…そうね、そんな感じね」
 
僕「ほんとに??じゃあテレビでじっけんしてみたらいいのに!げいのうじんがためしにけっこんしてみて、ちゅうしてみて、すぐりこんすればいいのに!そしたらほんとうかどうかわかるじゃん!!!」
 
母「……そ、そうね~笑」
 
せっかく5歳の息子がテレビの企画をプレゼンしているというのに、母親はひたすら濁している。当然だろう。恐らくこの状況でほんとうのことをペラペラ包み隠さず話せる親はごく少数であろう。それはわかる。
しかし「まだ早い」という親の思いとは逆に、子どもはこういうことを考えることを「あまりよくないこと」として認識するようになる。
そして「あまりよくないこと」だと思うからこそ、逆に性への興味は尽きなくなると僕は思っている。ダメと言われたら、やっちゃいたくなるのだ。人間だもの。みつを。
 
結果として、こういった「性」に関する記憶は頭の隅にこびりつき、どんなに昔のことであれ、22歳の現在も鮮明に思い出すことができる。
特に思春期の性に関する疑問や勘違いエピソードを挙げ出すとキリがない。披露する機会は合コンの2次会の他にあるだろうか。
 
さてさて、本書『せいのめざめ』では思春期の性 への疑問や勝手な解釈を男性、女性、それぞれの視点で赤裸々に描いている。
著者はイラストレーターの益田ミリさんとライターの武田砂鉄さん。といっても対談ではない。2名とも得意分野を活かし、益田さんはマンガで、武田さんはコラム形式で各々表現している。
 
公式の内容紹介には、
"10代の性の知識は自由、かつ大胆不敵。
♂・♀それぞれの立場から妄想と憧れの日々を描いた問題作!"
とある。
 
そう、思春期の性の思考回路は、きっと今より自由で、大胆不敵なんだ。だから、男子は卵巣が"挿すとウィーンと中心に出てくる"と思い、女子はキンタマが本当に金色だと思うのだ。
 
僕は男で、しかも中高6年間男子校だったということもあってか、武田さんのコラムは「ああー!こんなこともあった!」とニヤニヤしながら読み進め、時には声に出して笑ってしまう所がいくつもあった。
エロ本の隠し場所はどうしていたとか、親がやってるのを見てしまった友人はどうなったとか、本当にくだらないことばかり。でも、自分も考えていたようなことだから、くだらなくても、くだらないからこそ、文章からあたたかみを感じた。
 
一方、益田さんのマンガには、驚かされてばかりだった。女子って、こんなこと考えてたのかと。身近に女子がいなかったからと言い訳しておくが、女子の思考なんて当時考えもしなかった。
例えば、ちんちんについて。男子が女子のモノはどうなっているんだろう、と想像するように、女子も同じように疑問を持っているのである。
 
たぶん、全てとは言わないが、多くの人がこの本のエピソードのどれかには共感すると思うし、その意味で性の悩みはある程度普遍的であるように思う。
 
僕も中学高校の時は、性について色々考え、悩んだ。
今と違って、当時はガラケー全盛期。「パケホーダイ」という響きが懐かしいが、僕は普通のプランだったので、電車でちょっと調べものという、今では当たり前のことができなかった。
自分のパソコンも持っていなかった。一人っ子のため上から教えてもらうこともできず、また恥ずかしくて父にも相談できなかった。保健体育の教科書などはあてにしていなかった。だから性についての疑問の解消方法は友人に聞くしかなかった。
 
今考えると友人から色々とデタラメを教え込まれたわけだが、当時はそれを信じて一喜一憂していた。いや、明らかに憂の方が多かった。
 
中2の頃、一番悩んでいたのはオナニーについてだった。
事が済んだ後のあの強力な虚無感と体力的な疲れがまだ何も知らなかった僕を不安にさせた。経験ある人も多いのではだろうか。当時はシンプルにやっていいことなのかわからなかった。
でも、不安になりながらも、当然やめられないから、不安を払拭できない。
 
僕には医者を志している親しい友人がいた。彼に聞いたら、虚無感は当たり前だよ、だから全然普通だよ、と言ってくれた。彼は僕の性についての唯一の"先生"だった。
しかし一方で、毎回できるだけ同じ時間帯にした方がいいよとか、毎日はしない方がいいとか、謎の情報もたくさん教えてくれて、僕はそれを逐一信じていた。そのせいでほんとうに不安になったりしていた。おいおい、かわいいやっちゃなあ。
 
そんな僕が思い切って学校のカウンセラー室に行ったのが、中3の6月だった。
そこで僕がこれまで"先生"から教わってきた様々な情報を正してもらい、救われた。
 
当時不安だった僕がもしこの本を読んでいたら、どんなに安心しただろう。読みたかったなあ。
ただ、この本を手にするのは大人ばかりなのかな。そうだとしたら残念だ。
 
どんな悩みでもそうだが、周りにも同じような悩みで苦しんでいる人がいるということを知っているだけで随分と救われる気がする。
 
今はネットが身近にあって、簡単に情報を得られるようになって、性について悶々と悩んだり、友人に聞いたりする機会は減っているのだろうか。そんな気がする。
「オナニー 男」ってグーグル先生に聞くだけで、少なくとも当時僕が必要としていた情報を得ることができた。まったく便利な世の中になったもんだ。
 
『せいのめざめ』を読んで、はじめて友人以外の性の話をオープンに聞いた。それは、懐かしくもあり、あたたかくも感じた。確かに仲間がここにいる。安心できる。みんな最初はわからないんだ。それでいいんだと思える。
 
目を細めて懐かしがる大人はもちろん、ぜひ不安でいっぱいの10代にこそ手に取ってほしい。
 
本書に触れ、改めて思う。この時代を生きる中学生、高校生、大学生が性についてどんなことを考えているのか。今、僕の関心はそこにある。
 
せいのめざめ

せいのめざめ

 

 

少女たちの空想は現実となる / 映像研には手を出すな!01

空想はほんとうに楽しい。

 

僕はこれまで生きてきた時間のうち、どれほど空想に費やしてきたか分からない。

 

正門からなにやらすごい化け物が襲来して、それを僕が変身して食い止める。幼稚園の頃の空想だ。どんなに強い技を使ったか、いかに自分の圧勝だったか、今でもかなり正確に覚えている。

その後も小、中、高と空想の幅やスケールは大きくなっていき、大学生の今も空想は止められない。

 

そんな僕のような空想好きにぴったりな作品がこちら。

大童澄瞳作『映像研には手を出すな!』

f:id:happysun721:20170204144210p:plain

 

~あらすじ~

浅草みどりはアニメ制作がやりたいが、一人では心細くって一歩が踏み出せない。

そんな折、同級生のカリスマ読者モデル、水崎ツバメと出会い、実は水崎もアニメーター志望なことが判明し・・・!?

金儲け大好きな旧友の金森さやかも加わって、「最強の世界」を実現すべく電撃3人娘の快進撃が始まる!!!

小学館HPより) 

 

この作品の一番の魅力はなんといってもどこまでも広がっていく空想の世界だ。

 

主人公である浅草の

「私の考えた最強の世界。それを描くために私は絵を描いているので設定が命なんです。」

というセリフが物語っているように、作中には日常の風景から一気に空想の世界へ幾度となく飛躍していく。

ある時は屋根や壁に修理が必要な部室から、壊れてしまった宇宙船を空想する。浅草の空想はどんどん膨らんでいき、宇宙船の詳細なデザインや機能から、無重力化でもラーメンを啜れる重力制御どんぶりまで……空想が止まらない。

 

ただ、空想を空想では終わらせない。描いた空想の世界をアニメーションにしようと3人娘が協力し合って奮闘する。浅草が設定を語り、水崎が人物を描き、金森がバックアップを固める。魅力的なチームワークだ。

 

その魅力は個々のキャラクターにも表れている。

最も現実的でお金や時間に厳しい金森と、どんどん空想の世界へ行き現実を疎かにしがちな浅草や水崎のやり取りは常に本音かつ、コミカルに描かれている。

 

例えばはじめて部室を訪れたシーン。

 

浅草「ねえねえ。ここが我々の、拠点になるんだよね。」

 

水崎「……そうだよ?」

 

浅草「私達だけの別荘なんだよ!ソファーとかテレビとか本棚置いて快適にしようじゃないか。」

 

金森「物持ち込む前に建物の改修が必要だと思いますが。」

 

水崎「トイレは二つぐらい欲しいよね。床暖房入れてフローリングにできないかな。あと私シアタールーム欲しかったんだ!」

 

浅草「それならついでだから、屋根は可動式に!」

 

金森「はあ!?」

 

はしゃぐ2人を横目に常に現実を見つめる金森が非常に良い味を出している。

 

こちらもご紹介したい。予算審議委員会へのプレゼン用の動画を作ろうとするが、制作のペースが相当遅いことに気づいたシーン。ここでは作画に詳しい浅草の主人公らしい機転の利いたセリフも飛び出る。

 

金森「今日以降24時間労働で30日動画を描け!」

 

水崎「無理だよ!30日徹夜なんて!」

 

金森「1日48時間労働で15日に譲歩します。」

 

水崎「2×222くらいの違いしかないわ!」

 

 

浅草「今10秒くらい増やしたよ。」

 

金森「どんな魔法使った。」

 

浅草「風景だけのカット入れたじゃよ。全シーン動画描く必要はなかろう。」

 

金森「よし!もっとやれ!」

 

浅草「イェス!マム!」

 

この3人の強烈な個性のぶつかり合いから生まれる面白さ。会話のキャッチボールのスピード感。

 

作者特有のセリフの立体感にも注目したい。

 

f:id:happysun721:20170204144557j:plain

(コミックナタリーより)

 

このナナメに浮かぶセリフ。オンラインゲームのチャットを想起させるような一瞬一瞬の言葉の切り取り。

 

僕はこのマンガの絵が好きだ。人物はシンプルかつ表情豊かに描き、作品の世界観、空想のイメージを細かく綺麗に描いている。コマ割り、セリフにも躍動感がみなぎる。

それと女子高生3人娘という身近な設定が化学反応を起こして、この作品の魅力の奥深さとなっている。

 

 

この作品は、海賊王になるお話でも、宇宙人から地球を守る話でもない。

 

しかし、少女たちの夢がつまっている。

僕らの冒険心をくすぐる圧倒的なワクワクがつまっている。

 

人はなぜ空想するのか。僕の答えは、空想の中では誰しもが最強になれるから。

 

でもそれを形にするためには様々は困難を乗り越えなくてはいけない。でも、彼女たちならぶっとんだ空想でさえもアニメーションとして形にしてくれる、そう思わずにはいられない。

 

最後に一つ。作者の大童澄瞳さんは現在23歳だそうで、ほぼ同年代の若い才能に嫉妬と尊敬を込めて応援したい。第2集は今夏発売予定。楽しみで仕方がない。

 

ぜひ手に取ってみて読んでみてほしい。

 

 

映像研には手を出すな!(1) (ビッグコミックス)

映像研には手を出すな!(1) (ビッグコミックス)

 

 

 

回鍋肉事件

我らが明治大学の学生食堂(以下学食)には本当にお世話になっている。
ほとんどのおばちゃんに顔を覚えてもらっていると勝手に勘違いしてしまうほどお世話になっている。
 
大学の近くに一人暮らしをしている身からすると学食ほどありがたいものはない。なんせたった400円ほどで、美味しく、栄養のある一食にありつけるのだ。
しばしば息子の食の心配をしてくれる母親も「今夜は学食で食べたよ」とLINEするだけで、安堵の表情のお買い物パンダのスタンプを送ってくれるほどである。
 
そんな偉大な学食のラストオーダーは19時である。
僕はしばしば18時50分ごろまで大学の図書館に居座り、ラストオーダーぎりぎりを狙って学食にヘッドスライディングしている。わざわざぎりぎりを狙うのは、早めに夕食を済ませてしまうと深夜にお腹がすいてしまうというシンプルでいかにもビンボー者らしい理由のためである。
 
それ自体は大変結構なことであるが、ぎりぎりを狙うと問題も出てくる。
そう、ラスト一食を巡る攻防が待っているのだ。
 
その時間に行くと明大カレーと醤油ラーメンはだいたいいつも残っているのだが、定食メニューは一品、二品残っていればいい方。あとは全て完売したということ。その残り一品を巡り、僕は何回も慣れない辛酸を舐めてきた。
 
本日残っていたのは、明大カレー、醤油ラーメン、そして一回も食べたことのない回鍋肉定食の3品だった。
学食に入り、サンプルが入ったボックスに視線を移し、現時点で3品からしか選べないということを知るやいなや、一刻も早く注文をするためにカウンターへと急ぐ。なんとしても回鍋肉定食が食べたい。もちろんカレーやラーメンもとても美味しいのだが、いつでも食べられる、モロ炭水化物だからこれ以上太りたくないという2点の理由により、却下である。はじめての回鍋肉が食べたすぎる。
 
最後の一品を巡る攻防の結末は2パターンある。
一つは、僕の前にメニューを注文した学生で完売となり、僕がタッチの差で食べられないというパターンA。
もう一つは、僕が本日最後のメニューを注文し売り切れることにより、直後に滑り込んできた学生が食べられなくなるのを目の前で見てしまうというパターンB。
僕は大変繊細な心の持ち主なので、パターンAはもちろん、パターンBであっても、食欲は失せずとも、胸は痛くなる。自分は食べれてラッキーなどとは1ミリも思わない。
 
いつものようにどきどきしながら自分の順番が来るのを待つ。
先に注文を済ませていた男子学生が回鍋肉定食を受け取る。次は僕の番だ。祈るような気持ちで回鍋肉定食を注文。頷くおばちゃん。よし、まだ残ってた。パターンAは回避だ。
 
注文を受けたおばちゃんはごはんと味噌汁を器に盛り、鍋からおたまで回鍋肉をすくいだす。しかし、どうも様子がおかしい。必死に鍋の隅っこからかき集めている。
嫌な予感がする。かき集められた回鍋肉を皿に盛り、僕に差し出す。それを受け取り、会計を済ませるためにレジに向かおうとしたときだった。2人組の男子学生が滑り込んできたのだ。 時計の針は18時59分を指していた。
そのうちの一人の口から出た言葉は案の定、
「回鍋肉定食ください」
だった。
真横で聞いてしまった。パターンBだ。なんともいえない罪悪感でいっぱいになる。彼らは僕が回鍋肉定食を受け取るのを見ていた。あっじゃあカレーで、という半泣きの声もかすかに聞こえてきた。背中に槍のような視線を浴びながら僕はレジへと向かった。
 
どんよりとした気持ちでお金を払い、コップに水を注ぎ、箸を取り、適当な席につく。
さて、いただきます!回鍋肉を食べられなかった彼の分まで、全力でいただきます!
…全力でいただきますをしたは良いが、食べはじめて一口で気づいてしまった。
 
回鍋肉は口に合わないということを。まさかのパターンB+である。
 
二重の申し訳なさから生まれたこの文章を、目の前で回鍋肉を奪われた彼と作ってくれた学食のおばちゃんたちに捧げたい。

f:id:happysun721:20170123215602j:plain

言語化できない、だから書く

渋谷センター街ドトールにいる。

受験生だった頃からの鉄板の組み合わせ、

「ミラノサンドAのセットでぇ〜、アイスコーヒーのSでお願いしますぅ〜」

もしくは金欠非常時の

「アイスコーヒーのSください(ドヤ顔)」

で4〜5時間粘ってよく勉強したもんだ。

今日はそのどちらでもなく大学生になってから見つけた最強の組み合わせ、

「ミラノサンドAのセットで(そこはブレないのな)、ハニーカフェオレのHOTのMでお願いします(キリッ)」

をイケメン店員にカマしてやった。

………んなことはどうでもいいんです。(ドトールさんこれからもお世話になります)

今日はとあるwebメディアを運営している会社の編集インターンの面接があった。

結果から言うとボロボロだった。

「話せない」

「咄嗟に言葉にできない」

何も言えなかった。

書くことを仕事にしたいということ、

その理由、

これまで頑張ってきたこと、

就職について、

好きな作品。

どれも普段から考えていること。

のはずだったのだが、いざ声に出そうとすると、どうしても言葉にならない。焦った。本当に焦った。

終わったあと、自分に腹が立ち、情けない気持ちでいっぱいになった。

話せなかった理由はいくつか考えられる。

面接官が4名だったというのも影響がないとは言えないし、そもそも久しぶりの面接で緊張したというのもある。

でも、それ以前の問題な気もしている。

まず考えていることを言葉にして声に出すためには、普段から練習が必要だと思うが、僕はやっていなかった。

それから恥ずかしいとか、自分に自信がないとか、そういうことも関係していると思うし、それは現時点での僕にも当てはまる部分はある。

…まぁ、それが分かったところでそんなすぐに変わるものでもないだろうしなぁ。。

『言語化できない』

大学1年生からの課題を今まで引きずっている。

なんとかしたいと思って、授業では積極的に発言してきた。大学のあるサークルの代表を務めたのも、実のところこれが大きく関係している。去年の就活でも苦戦し続けた。

でも、ぼろぼろだった面接にも収穫はあった。

それは咄嗟に言葉にするのが苦手な僕のような人こそ、書くことで表現すればいいのだと、改めて考えることができたことだ。

だから今は

どうしたら話すのが上手くなるか

よりも

どうしたら面白い文章が書けるかを考えたい。

文章で勝負できるようになりたい。

まずは文章で言いたいことがきちんと言えるようになったその先に、話すことにおいての進展があるかもしれない。

ぼんやりと、こんなことをドトールに着くまでの道のりで考えた。

10

何て声をかけようかな/ローマの休日

あなたは少し古い映画を観ている時、または観終わった後、こんなことを考えはしないだろうか。
 
もし私がこの映画と同じ時代を生きているとしたら…
 
もし僕がこの映画に出ている女優の目の前にいるとしたら…
 
僕は映画を観ると、よくこんなふうに妄想を膨らませ、ノスタルジーに浸ってしまう。
 

f:id:happysun721:20170109235141j:plain

 
ローマの休日』は1953年にアメリカで製作された恋愛映画である。
イタリアのローマを表敬訪問したアン王女(オードリー・ヘプバーン)がハードスケジュールに嫌気が差し、こっそり滞在先から抜け出すところから物語ははじまる。
そこでとある新聞記者のジョーグレゴリー・ペック)と知り合う。ジョーは彼女がアン王女であるということを知ると、スクープにするために自らの職を偽り、アンと親しく接する。
しかし、ローマでの一日を一緒に楽しく過ごし、王女を連れ戻すための追っ手から逃げている内に2人の距離は近づいていって…
 
今回はいつも以上にノスタルジックな感情になってしまった。
それはこの時のオードリー・ヘプバーンの圧倒的な美しさに対して、
彼女は僕が生まれた1年前の1993年に亡くなられている、という信じたくはない事実がそうさせているのだと思う。
 
この時は若くて笑顔がとびきり可愛い王女さま役の女優は、時代の流れと共に年を取り、既に人生を全うされている。
その事実は僕の胸をきゅーんと締め付ける。
 
時は着実に流れ、今この瞬間も確実に人生の砂時計の砂は落ち続けているのだと改めて思う。
 
だからこそ、この映画からはその「時代」をその「瞬間」を切り取ることができる、という映像の素晴らしさを感じずにはいられない。この先もずっとずっと、オードリーの笑顔は人々を魅了し続け、『ローマの休日』は名作として語り継がれていくだろう。
 
生きた時代は違えど、僕はやっぱり妄想を膨らませてしまう。
 
もしオードリーに出会えたら、何て声をかけようかな。
 
9